城のなごり

消えてなお残る余韻を求めて城跡を訪ね歩く記録です。

戦国大名今川家のなごり(観泉寺) 高家今川家菩提寺

戦国時代屈指の名門大名・今川家ゆかりの寺を訪ねました
<観泉寺>かんせんじ
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ここは東京都杉並区です。こちらのお寺は駿河に君臨したあの今川家の菩提寺です。

■足利の一門の名家■
今川家は足利一門の名家駿河国守護を代々継承し、戦国時代には大大名になっていました。11代当主今川義元を思い出す方が多いのではないでしょうか。今川家は義元の時には駿河国遠江国を支配する巨大勢力となっていましたが、圧倒的有利と思われた桶狭間の戦い織田信長に敗北。当主本人が討たれてしまい、それ以降今川家は徐々に衰退することになります。

今川氏真うじざね
今川義元の跡を継いだ12代当主となった氏真も、よくよく調べてみれば復権を目指していろいろと画策したようですが、大きな流れは変えられませんでした。やがては妻の実家である小田原の北条氏を頼り、最終的には徳川家康を頼ります。 今川家からみれば、家康はかつての家臣であり、更に桶狭間の戦いで今川家を見限った男です。その家康を頼る。誇り高き今川家の当主としては、そうとうな屈辱を感じたかもしれませんね。あるいは、既に疲れ果てたあげくの心境だったのかもしれません(あくまで素人の想像です)。

■今川直房■なおふさ
氏真が生き延びたことで、今川家の歴史は続きます。氏真の次男は名を品川氏と改め、幕府の儀式や典礼を司る高家となっています。高久の兄は徳川幕府に仕えませんでしたが、その子である直房は旗本となり、高家今川家の祖となりました。格式の高く権勢のある家柄として扱われたわけですね。名門家に相応しい役割です。直房は今川家中興の祖といえます。

■井草村と今川家■
今川直房は高家としての職務が徳川家光に認められ、もともとの所領とは別に井草村を含む3か村五百石を加増されました。これにより今川家の家禄は千石となりました。直房は井草村の観音寺を観泉寺と改め今川家の菩提寺と定めます。

<寺号標>
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門前にある立派な石碑です。右手は杉並区教育委員会による説明が記されています。

<今川氏累代墓の石碑>
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石碑に記されている通り、境内には今川家代々のお墓があります。

<杉並区今川>
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今川は地名にもなっています。幕末まで今川家の所領でした。 あの今川家の末裔の菩提詩が杉並区にある。それだけで感慨深いものがあります。全ては国を追われながら落ち延びた今川氏真あってのこと。直房は早くに父を亡くしたため、祖父である氏真に養われたそうです。氏真の墓は当初別な場所にありましたが、井草村を与えられた直房により、ここ観泉寺に移されました。

<観泉寺山門>
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観泉寺は今川家の菩提寺であるとともに、知行地支配の拠点にもなり、年貢の取立てなども寺の門前で行われたそうです。世俗から切り離されたような寺ではなく、領民が集まる場所だったわけですね。

<本堂>
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<本堂の扁額>
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観泉禅寺の文字。曹洞宗のお寺です。山号宝珠山

<鐘楼>
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<庭園>
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そして
今川家墓所
<今川氏累代の墓>
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すみません。当ブログはお墓の撮影が苦手のため、遠くから撮影しました。画像の中央、手前の石仏の奥が今川氏累代の墓所となります。

<説明板>
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墓所入口の説明板です。東京都教育委員会さんの説明によれば、墓碑は今川氏真以降の当主や一族出身の女性や子供など多岐にわたるとのこと。また寺が年貢の徴収や裁判の拠点となっていたことも記されています。

<つわものどもが夢の跡>
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ここ観泉寺は、戦国大名今川家のなごり、そして高家として再興した今川家の確かな足跡ですね。

■訪問: 宝珠山観泉寺
[東京都杉並区今川]2-16

■出典及び参考
・現地説明板
 (東京都教育委員会
 (杉並区教育委員会
Wikipedia:2021/4/17