
八幡社境内の首塚です。

塚の上の石柱に刻まれた文字は甲越直戦地。この地は甲斐武田と越後上杉の激戦となった古戦場です。
説明板によれば、以前この塚は屍塚(かばねつか)と呼ばれたようです。第4次川中島合戦(永禄4年9月)の後、武田方の海津城主・高坂弾正が、戦場となったこの付近の戦死者(約6000人)の遺体を、敵味方の隔てなく集めて、手厚く葬った塚のひとつと記されています。
海津城主は合戦場から近い武田方の拠点です。城を任された高坂弾正が、野にさらされた武田・上杉双方の屍を土に返したということのようです。
続きはそのまま転記します(『』内は原文)。
『これを知った上杉謙信は大変感激し、後に塩不足に悩む武田氏に対し、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と直ちに塩を送り、この恩に報いたといわれている。』
今川・北条と対立関係となった甲斐武田は、塩の道を絶たれていました。塩はいまもむかしも必需品です。敵であっても、戦いの本質とは異なる塩は支援する。この「敵に塩を送る」という行為は、上杉謙信の美談として有名ですが、高坂弾正の行いに報いる行為ということのようです。
説明文の続きには『ここから東南へ約180メートルのところにも同じく大きな首塚がある』と記されていました。

こちらです。

設置されている説明板には、先ほどとほぼ同じ内容が記されています。ただこちらの「かばねつか」には骨塚の字があてられていました。説明文によれば、昔はこの付近にいくつもの首塚があったが、現存する大きな塚は2つだけとのこと。『小さな塚は各所に点在している』と記されています。